ガリュウくん!
3月末、桜の咲く日本が一番美しい季節だ。
友人の南極冒険家、阿部雅龍くんが亡くなった。
僕とは同い年くらいだ。
もう20年くらい前、学生の頃のバイト仲間として初めてガリュウくんに会った。
今僕をメインスポンサーしてくれているケイズハウスの東京店の住み込みで、僕が仲良くしていたトモさんという人と相部屋でホステル内に住み込みで働いていた。
当時のガリュウくんは、見るからに、
こいつナルシストか?
という雰囲気が出てて、正直あまり得意じゃなかった笑
多分まだ南極の話も聞かなかった。
ただ、ガリュウくんの周りにはいつも人がいるような気がしていた。
その後ガリュウくんがアマゾン川をイカダでくだったり、何度かコアな旅に出ていくのを見ているうち、
よくは分からないけど何か彼にはやりたいことがあるのだと分かってきた。
外から見たら、なんかやってるな…と思っていたその一歩一歩の歩みは、何年も経つとすごい距離になっていた。
いつの間にか、彼は何者ではないゼロから何者かになるまで積み重ねていた。
(外から見た人にとって、いつの間にか、という名もなき道中の時間が本人には一番大変だったり価値ある時間かもしれない。)
その頃、僕は25歳初心者からテニスを始めていた。
プロテニス選手を目指して始めたものの、周りにいる誰よりもセンスがなく、誰とやっても一般の老人にも子供にも負けていた。
お前は何万球打っても上手くならないと毎日コーチに怒鳴られまくった。
誰にも相手にされていなかった。
自由に悠々自適に生きてていいね、趣味でやってるんだよね?
世界一を目指してると言えば、相手は困った顔をした。
何言ってんの…?
学歴だってあったのに、なぜそこまで可能性のないことをやろうとする?
やりたいったって無理だよ?
周りには誰もいなかった。
そんな時、ガリュウくんは何というか、数少ない光に映った。
ガリュウくんはゼロから積み重ねて、状況をひっくり返し始めていた。
いつの間にか、僕の彼の見方は変わった。
僕も同じように周りの目を変えるところまでやるしかない。
僕も積み重ねた。
初めてスポンサーを集めをすることを決めた頃、意を決して彼のところに学びに行った。
彼が全国を人力車で歩いている最中の時も、時間を作って会ってくれた。
ガリュウくんから、資料やポートフォリオの作り方、応援してくれる人に対して何をしているか、スポンサーを集めるためにどんな行動をしているか学んだ。
僕のプロフェッショナルに対する捉え方の多くはガリュウくんの考え方から来ている。
それから折ある重要なタイミングでは相談するようになった。お世話になった。
ガリュウくんは感嘆する程どんどん先に行った。すごく忙しそうになってきて、南極冒険に必要になるすごい金額のスポンサーも集め始めていた。
僕はとても小さい規模ながら、ずっと積み重ねていた。駆け出しの頃のガリュウくんもずっとやっていただろうことだ。
当時から、ガリュウくんは僕のことを、この人はホンモノ、本当のチャレンジャー、というような言い方で紹介してくれた。
そういう風に言ってくれる人がいたのがすごく大きな励みで救いでもあった。
それから更に何年も経って、ほんのここ2年くらいで、僕もやっと一応自分の道らしいものが出来た。長い時間をかけて、なんというか同志みたいに思うようになった。
ガリュウくんは一度は南極点に立ち、ついに南極冒険家人生最大の夢に挑戦する舞台を整えつつあるところに漕ぎつけていた。
まさに、あと一歩のところだった。
ガリュウくんは、彼が言った通り、笑って死ねる人生を全うしたと思う。
「笑って死ねる人生がいい。」
俺はその言葉が好きだった。
死んだことがないから、当時はキレイゴトかもしれないと思ったが、
本当に死んでしまって、
ガリュウくんは間違いなく、本当に笑って死ねる人生を生きたんだと分かった。
夢半ばで倒れたか成し遂げたかとか、そういうことじゃない。彼は倒れる最後までガリュウくんの生き様を生き切った。
彼ほど器のデカい人間かは分からないけど、俺もそういう人生を生きたいと思ってる。
明日死んでも笑えるくらい、今日を必死に生きてないと、そういう人生は生きられない。
ガリュウくんはそういう人生を生きたのだ。
僕にとっては、近しく歳も近い友人では、あまり分かってなかった小学生低学年以来、初めて亡くなってしまった人で、
もう何か上手く言葉にできないし、そもそも正直こんなところに文章書くものなのかも分からないけど。
お疲れ様。
寂しいけど、お別れだね、
今までありがとう。
そして、
さようなら!
市川誠一郎